鬼滅への複雑な思いを語りたい
鬼滅の刃がアニメ化した。
人口が一気に増えてとても嬉しい。しかしひとつ大きな問題がある。
私は列車編以降の鬼滅の刃にすごーーーーく複雑な思いを抱いているのだ。
そんなことアニメ組には関係ない。出来れば私も、大好きだった頃の鬼滅の刃を好きだと言ってくれる人に存分に楽しんで欲しい。
でも人の感想を見る度に疑念を抱いてしまった。これ、そんなにいいものだろうかと心中異を唱えていた。
だいたい、二次創作で勝手にBLをやっているような女が表で作品批判をすること自体ナンセンスだと思う。だから黙っていればいいんだけど、落書き帳であるここでは自分のための整理として書いておきたい。
鬼滅の刃は超面白い。
主人公である炭治郎が降りかかる困難に負けず、常に鋼の意志をもって、妹のために獅子奮迅する様はとても格好いい。応援していて気持ちのいい主人公だ。
鬼たちのそれぞれの事情、思い、散り際はその真っ直ぐな主人公と対立するかのように儚く哀しいものばかりだ。
しかし炭治郎はそれに理解を示し、手を伸ばし、それでも鬼を斬る。
本当に素晴らしい作品だと思う。大好き。コミックス貸すから読んで欲しい。
だが、それにしたって、いくらなんでも、と思う。
主人公持ち上げすぎじゃね?と。
だって、年齢二桁にも満たない女の子に裏切られた経験があるからって、すでに十代も半ばを過ぎた炭治郎の献身的な姿勢に感じ入るのか?それで子供は皆が悪いわけじゃない!と思い直すの?大の大人が?
他のヒラ隊員は修行のための設備の一部として使われるけど、特別に気に入られている炭治郎はソツなくこなして基本塩対応の上司にも暖かく受け入れられるのか。
あらゆる人の過去には炭治郎によって思い起こされる優しい過去があって、それを思い出させてくれた炭治郎に感謝してその後もデレデレになってしまうのか。
鬼滅の刃を読んでいるとそういう小さな違和感が何度も何度も降り積もる。
私が無理だと感じたのは列車編で炭治郎の優しい心の具現化たる光の小人が出てきたときだった。蜘蛛山編が終わり、柱会議で次の目標が示され、もっともっと面白くなると期待していた矢先のことだった。
だから、反動も大きかったのかもしれない。
それでも今放映しているアニメの出来がよければよいほど、何とも言えない哀しい気持ちになってしまう。やっているのは大好きだった頃の話なのに。
アニメ組がコミックスを買ったときどう思うんだろうと勝手に思いを巡らせてしまう。余計なお世話だ。
私というオタクは語りたがりで、しかも作品への熱意が冷めてしまったのなら厄介でしかない。
それでも今のこれにはとてもついていけない、という気持ちだけはここに表しておきたかった。
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